フィリップ・K・ディック『ユービック』

 

疲労と冷却は、いずれやってくるわ。でも、そんなに早くじゃない

――エラ・ハイド・ランシター

 

 ディックの世界では必ずしも時間は前に進むとは限らない。

 11人の反予知能力者と、グレン・ランシター、ジョー・チップが爆発に巻き込まれた時から、時間退行は始まった。持っている硬貨や煙草はいつの間にか古く干からびたものとなり、あらゆるものは衰退し、いつしか1人また1人と仲間は死んでいく。ジョーは、そんな現象に立ち向かいながら、その正体、そして対抗するための鍵となる「ユービック」を探し求める。

 以上が簡単な『ユービック』のあらすじとなるが、この説明が物語の本質を捉えられているとは言い難い。『ユービック』が描くのは、超能力者とそれを妨害する能力を持った人々が争っており、また半生者と呼ばれる死を延長した人々がいるなど、非常にSF的独創に溢れた世界である。そのような特殊な世界でさらに特殊な物語が進行するため非常に話の本質が分かりにくい。しかしそこに仕込まれた物語の転回を読めば驚くこと請け合いである。

 1つ、この作品を読むに前提とするべきこととして、この世界における時間退行は若返り、或いは新しくなることを意味しない。むしろ退行はそれ自体が衰退であり、老化である。時間は、後ろに戻るのではなく、後ろに進むのである。その結果、退行の影響は「老い」のように例えられ、退行の犠牲者は「子供でしかありえない姿」で風化して死亡する。「第二の幼子の時代、完全なる忘却、歯もなく味もなく目もなく何もない」(『お気に召すまま』)とシェイクスピアが言う通り、幼児は時に老人と同じ位相にある。

 ここで問題が生じる。退行と通常の時間進行は確かに衰退の速度が違う。しかし、いずれ朽ち果てるという点では全く同じである。では、果たして現実の世界と退行世界は何が異なるのか?

 そう考えたとき、物語終盤におけるジョーの選択が普遍的(ユビキタス:おそらく「ユービック」の由来)な意味を持ち始める。物語の中枢にかかわる為詳細は省くが、ディック特有の衰退と死に向かい続ける世界と、その中を「生きる」人間、そして確かだったはずの現実が簡単に崩壊してしまう衝撃を詰め込んだ、ディック定食半チャーハン餃子付きみたいな作品である。